ある人がこんなことを言われた。
「一日暮らしというということを工夫するようになってから、精神が健やかになり体の調子もよくなった」と。
どうしてかというと、今日という一日は千年万年の初めなので、その一日をよく暮らして勤めを果たせば、その日は充実したものとして過ごすことができる。
それなのに、翌日のことをあれこれと気にして、まだ何が起こるか分からない先のことについて思い悩み取り越し苦労をして、その日を無駄に過ごしてしまったりする。
そして、また次の日になっても、さらに先の未来のことを気にしてしまって、今日という大切な日がなおざりになり、心が疎かになってしまう。
それは、明日の命があるかどうか分からないから、今日はどう過ごしたっていいだろう、自分の好きにして過ごしていいだろう、ということではない。
明日の命があるか分からないからこそ、今日一日の勤めに精一杯励み暮らすことが大切だということだ。
どんなに苦しいことがあっても、今日一日の辛抱だと思えば耐えることができる。
逆に、楽しいことがあっても今日一日だと思えば、それにおぼれることもない。
愚かな人が親に孝行しないのも、自分や親の一生はまだまだ先が長いと思うからである。
自分の一生が今日の一日だと思えば、決して疎かにすることはないのだ。
そして一日一日と勤めてゆけば、それが百年になり千年にもなる。
一生のことだと思うから、おっくうになってしまうのだ。
人の一生は長いことのように思うかもしれないが、自分の一生の終りが、明日のことか、一年後二年後のことなのか、百年千年先のことになるかは誰も知る人はいない。
いつ訪れるか分からない死を区切りに考えるから、一生という概念にだまされてしまうのだ。
人生の中で一番大事なことは、今日の只今の心なのだ。
それをおろそかにして、明日があることはない。
多くの人は、遠く先のことばかりを気にして思いをめぐらしているが、一番大切な今日の今に気がついていないのだ。
『一日暮らし』正受老人 現代語訳
今年も三月十一日を迎えました。
あの震災から十三年になります。
東日本大震災は、私の人生観にとても大きな影響を与えました。
明日生きている保証なんてどこにもない。
そんな不安定な中で、私たちは生きている。
そんなことをあの時ほど強く感じたことはありません。
今日の一日が人生最後の日だと感じながら過ごすということは、なかなか難しいことですが、一日に一度はそういうことに想いを巡らして過ごしていきたいと思います。